大留(おおどめ)城

2018年5月27日撮影


◆別名:

 

◆所在:

 

◆交通:

 

◆歴史:

城址碑には天正年中村瀬作右エ門居城と刻まれている城である。

尾張群書系図部集には村瀬作左衛門とあり、父村瀬某は将軍足利義輝の配下で、天文15年(1546年)に大留城を築いたとの記載がある。

 

天正12年(1584年)豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍との間に小牧長久手の戦いが勃発。各地で抗争が繰り広げられる中、膠着状態の戦況を打破するため、秀吉方に付いた、池田恒興、森長可らは三好秀次を総大将として、家康の主城の一つである岡崎城を目指して軍を発する。

 

篠木一帯を支配していた上条城主の小坂雄吉は、池田恒興の要請を受けて伊勢長島へ出陣。城番の森川権六らが吉田城などの城を修築整備し道案内として池田軍に従っていたが、村瀬作左衛門は配下の物を家康の陣へ走らせ、池田軍の経路を伝えたため、徳川軍は後を追って出撃。岩崎城の攻防戦を経て長久手の戦となった。

 

その後、秀吉側が小牧にある諸城と共に、篠木一帯の城を破却する事を条件として講和を結んだため、大留も取り壊されたと伝わっている。

 

◆現在:

城の南端に建てられた、子安神社の境内にある祠脇に城址碑が立ち、神社北側には堀跡が残るが、主要部分は宅地化されてしまっている。